江戸時代
江戸時代と良寛
18歳で出家してから尼瀬の光照寺、備中の円通寺で修行。円通寺の国仙和尚が亡くなってからは中国・四国・近畿地方を行脚し、大徳のあるところを訪ねて業を重ねました。
京都に滞在中の父親が桂川に身を投げて自殺した後、越後に帰ってきました。良寛38歳の時です。
越後に帰った良寛は、寺泊の照明寺、野積の西生寺・・・等々約10年間処定を定めずに居を移していたのです。
文化元年(1804年)47歳の時に当山内にある五合庵に定住することとなりました。それは即ち五合庵に住んでおられた国上寺の前住職義苗和尚が亡くなられたからです。思えば出家してから30年間、永い漂泊の旅からやっと安住の地を得てほっとしたのでしょう。
「いざここに 我が身は老いん 足びきの 国上の山の 松の下いほ」
と詠んでいます。
その後、乙子神社の草庵に10年住まわれ、さらに島崎の木村元右衛門の小舎に移り、天保2年正月、74歳で亡くなられました。墓は同村隆泉寺に建てられています。
良寛は越後に帰ってから、晩年島崎に移るまで、約30年国上にいたので、今日残っている多くの詩や歌や書は大部分が国上山に住まわれていた時代の作です。
現在五合庵は新潟教育委員会により県の文化財に指定され、永久に保存することとなっています。