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平安時代

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平安時代と慈覚大師円仁

慈覚大師(794~868)は最澄の弟子で、唐に渡り修行をしました。天長6年(829年)から3年、東国巡礼の旅に出て、青森・岩手・秋田・山形・宮城・福島で10を超える寺を開いて、教学を広めました。その頃国上寺にも立ち寄ったのでしょう。

慈覚大師が来山の折に広めたと伝えられているのが、「院宣(いんぜん)祭り」です。摩多羅天神の縁日の10月17日、旧国上(くがみ)村の秋祭りとして院宣祭りが行われていました。

院宣祭りとは、じじばばの面を被った男性が、木製の斧と鉞(まさかり)を持って本堂の欄干の周囲を回り、2周して正面に来たとき、集まった人たちがじじばばの斧と鉞を奪い取るのです。斧と鉞を奪い取った者は、この地区での有名人になるとともに、これらを玄関口に祀ると、その家は無病息災だと言われています。この奇祭も危険でけが人が出たこともあり、今では休止しています。

また慈覚大師が来山以来、国上寺には僧兵が組織されたようです。現在の方丈講堂の柱という柱には、小さな穴が多く残っており、これらは手裏剣を投げた跡だと言われています。柱を人に見立てて訓練したのでしょう。

このように、慈覚大師は院宣祭りと僧兵の文化を残して比叡山に戻られたそうです。

平安末期と源義経公

悲劇の武将、源義経公伝説が寺伝にあります。源平の戦の功労者でありながら、兄・頼朝に追われた義経公は、文治3年(1187年)、奈良の吉野山から岩手県の平泉へ逃れます。その途中に国上寺本堂に隠れていたとのこと。当時は山門の奥にある方丈講堂にて住職・役僧・修行僧が住んでいましたが、一般の参拝者は立ち入ることができなかったので、本堂に身を隠したようです。やがて義経公が隠れていることを頼朝に密告する者がいて、一行は寺を去り、弥彦へ向かいました。その折に義経公ご自作の大黒天木像を奉納されました。大黒天が背負っている福袋の背後には、
   「治承 庚子年 正月朔日 源義経 華押」
と刻まれています。