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戦国時代

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戦国時代と上杉謙信公

当山の千手観音(客殿に安置)を信心された上杉謙信公により格別の配慮を賜りました。祈願所として十万石の格式を拝領し、七堂伽藍を建立されました。
当時の国上寺には21の坊があったそうで、うちの16坊は古絵図にも十六坊跡とあります。
往時には国上山山中に二十一ケ寺、県内外を含め百三十有余ケ寺の末寺を有し、常時千人以上の修行僧を置き御祈祷所として隆盛を極めました。

戦国時代と万元和尚

戦国時代、織田信長が延暦寺を焼き討ちしたように、当寺も何度か焼き討ちにあいました。万元和尚は大和国吉野郡の出身で、比叡山延暦寺で天台宗の修行を終え、26、27歳で諸国行脚に出て佐渡に渡ろうとしましたが海が荒れて断念し、旧知であった国上寺良長住職を訪ねておいでになりました。
そこで万元和尚が目にしたものは、無残にも荒れ果てた境内でした。本堂も焼け落ちていたそうです。見かねた万元和尚は「私に協力させてほしい」と願い出て、越後の隅から隅まで30年という年月をかけて托鉢しました。その間に住んでいたのが五合庵です。五合庵は良寛で有名となりましたが、初代住人は万元和尚なのです。
現在の本堂は4度目の再建で、万元和尚が托鉢した浄財を元に建設したものです。
万元和尚は新潟へ托鉢に向かう途中で病に倒れ、本堂の完成を見ることなく亡くなりました。没後、故人の遺志でお墓を五合庵脇に建立しました。
旧分水町石港の新信濃川右岸の「夕暮れの岡」に祠と万元和尚の歌碑があります。
   「忘れずは 道行きぶりの 手向けをも ここを瀬にせよ 夕暮れの岡」 
万元和尚は国上寺の中興の祖といわれております。御本尊参拝の折はその遺徳をお偲びください。